2024年度

『 万葉集に親しむ』~紀伊國の旅に~ 2024年5月17日

5月のカレンダーの歌は、ホトトギスと「うのはな(うつぎ)」と【花ごよみ(初夏バージョン)】で杜若と卯の花、ホトトギスの歌と、住吉大社の『卯の花苑』(毎年5月1~31日のみ開園)の紹介がありました。
万葉学級のテーマソング【サンバDEツバキ】の巨勢山のつらつら椿の歌は、大宝元年冬10月に、持統と文武天皇が紀の湯に行幸した時に同行していた坂門人足が詠ったものです。
この時に景勝の白崎や、南部(三名部)・鹿島、由良、和歌浦(黒牛潟)、藤白、真土山、飛鳥の土地を歌った15首を味わいました。特に白崎の景観は犬養先生が、セメント原料の採取からの破壊を守ったので、何とか崩壊を免れ今は日本のエーゲ海とも云われています。
後半は、有間皇子の挽歌です。巻2⁻140~146は有間皇子自身・長忌寸奥麻呂・山上憶良・柿本人麻呂・川島皇子、巻1⁻10・11は額田王・中皇命の挽歌があり、何れも有間皇子への哀悼の想いが詠われている。
有間皇子の変について日本書紀(政権側の記述)と万葉集の有間皇子の挽歌は対照的である事を学びました。
*参考:中皇命は間人皇女「はしひとのひめみこ」の説が有力か?=とすると孝徳天皇の皇后で、有間皇子は息子という事になる。
孝徳天皇は、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めたが、白雉4年(653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊(後の斉明天皇)と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて飛鳥に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。宝算59。中大兄皇子にとっては有間皇子は政敵にあたる。(編集人追加)

202210学習内容(有間皇子ページ)が開きます。(有馬皇子から有間皇子に訂正しています)。


『 万葉集に親しむ』~妻争い伝説~ 2024年4月19日

4月のカレンダーの歌は、「つぎね(フタリシズカ)センリョウ科」。このシズカは、1本の花がヒトリシズカ、2本出ているのがフタリシズカと云いカレンダー写真はフタリシズカです。歌は長歌と反歌3首の4歌構成で作者未詳で、口伝えの口承文学で古い時代の歌が集められた巻13巻にあります。飛鳥の頃は、役人の勤務時間は日が上り落ちるまでで、都にある役所に行くのには、朝明けぬ前に山を超えて出勤していきます。
「向こうへ続く山背道を、他のご主人はさっさと馬で出かけられるのに、私の夫は ひたすら歩いていくので、見るたびに泣けてくる。それを思うと切なくて心が痛 むのです。私が母の形見として大事にしている真澄鏡と蜻蛉領布を持参し、それで馬を 買ってください。あなた。13⁻3314」と妻が詠うのですが、夫は答えて詠います「私が馬を買っても二人は乗れないから、お前さんは歩かなければならないだろう。 かまうものか、石を踏んで難儀しょうとも一緒に歩いて行こうよ」13-3317 。夫婦のいたわり愛の万葉歌で犬養先生が「結婚式」いつも披露されていた歌を、岡本先生が「祝婚歌」として作曲されました。
下のYOUTUBEに高岡万葉まつりに万葉うたがたり会の山口ひとみさんが歌っておられます。(つぎねVER)
妻争い伝説「菟原処女の伝説(うないおとめ )」現在の兵庫県西宮から芦屋市付近での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめを巡る悲しい妻争いの伝説で、田辺福麻呂(さきまろ)・高橋虫麻呂、大伴家持が万葉集に詠っています。特に高橋蟲麻呂は長歌で空想力を駆使し伝説を精細に劇的にえがきあげた長編です。
神戸市東灘区御影塚町にある処女塚は、娘「菟原処女」の墓、付近にある西求女塚(灘区都通に所在)と東求女塚(東灘区住吉宮町に所在)は2人の求婚者の墓と伝えられています。観阿弥または世阿弥の作と伝えられる謡曲『求塚』や明治時代の文豪・森鷗外は、この伝説を題材として戯曲『生田川』川端康成の『たんぽぽ』三島由紀夫の『獣の戯れ』にもされました。