『 万葉集に親しむ』~スミノエウォークに寄せて~ 2024年10月18日
岡本先生の鞆の浦訪問、和歌の浦万葉音楽祭、高岡万葉まつりに参加の話からスタートしました。
カレンダーの歌は「黒米」です。明日香には、紫・赤・黒の古代米が栽培されています。
来月行くスミノエウォークの万葉歌を解説いただきました。
天皇にお仕えする万葉歌人 車持朝臣千年が住吉を讃えた反歌では、住吉では「黄土」(はにふ)=「埴土」が反歌で歌われています。黄土染めに使われているそうです。埴生=黄土の万葉歌は、今回3首勉強しました。
*住吉大社の大海神社の参道の坂は縄文海進の名残で坂の土は「埴土」を彷彿させるかもと住吉大社ボランティアの説明書に書かれています(編者調べ) 反橋近くの住吉大社歌碑歌碑に、この歌3首が刻まれています。
「遣唐使進発の地」碑の裏面にある第10回遣唐使への長歌と反歌は、無事の航海を祈った言霊の和歌です。
又、カキツバタが有名な浅沢社、犬養先生が大阪時代に住んでおられた粉浜のシジミを歌った犬養先生の歌碑、出見の浜の万葉歌を解説いただきました。
出見の浜を歌った万葉歌ですが、此処に高燈籠が立っていました。
*住吉公園にあるの汐掛道の碑に「ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見の浜に出る名勝の地であった」と記載されています。(住吉公園にある粉浜シジミ歌碑の下の説明碑の内容)
今回のウォークの訪問地にはありませんが、あられ松原を歌った長皇子の万葉歌等も勉強しました。
犬養先生生誕100年記念の浜寺公園にある犬養先生の万葉歌碑についての流浪の変遷を教えていただきました。
更に、住吉大社の歴史や古代のスミノエの様子も勉強しました。
↓万葉時代の住吉地形(住吉大社 反橋近くの万葉歌碑 正面の下)を参考にして下さい。
『 万葉集に親しむ』~妹と背の山~ 2024年9月20日
今日は、大谷翔平の51⁻51達成の話からスタートです。
まずは、9月27日にNHKの奈良なびに出るので見てねと岡本先生が話されました(NHK奈良のローカル番組なので、大阪のNHKでは視聴できませんがNHKネットの【NHK+】では1週間視聴できます。午後6:30から7:00の間で【おでかけナビ あなたの”推し”は?「飛鳥人」人気投票】の番組で取材を受けられたとの事です。
カレンダーの歌は「あかね」です。万葉集には13首あり、あかねの花そのものを歌った歌はありません。日の暮れる薄暮時が飛鳥人は一番恐ろしい時間帯であかね色にそまり日が暮れていく中で詠われている万葉歌の紹介でした。
和歌山県は、紀伊国(きのくに)で木の国と熊の国に別れていました。万葉の時の紀伊国への行幸(4回)で残された歌詠は、さながら1連の海洋交響楽と犬養先生は書かれています。
明日香からは、吉野川ー紀の川沿いに紀伊国に向います。歌は巨勢山の椿の歌(サンバDEツバキ)と藤原郷の七首(まつちの山川、神代の渡し場、妹背山、雑賀等の和歌)です。真土山を詠った万葉歌は八首あり、犬養先生歌碑も多数あるとの事です。
万葉うたがたりの歌「大我野のテーマ」が紹介されました。
妹と背の山は、万葉集に14首も詠われています。この山は笠田(かせだ)の駅の近くの紀の川の両岸にあります。旅人の郷愁から生まれて固定化した山の名で旅愁・妻恋いの思いがうたわれています。最後は聖武天皇の行幸の目的地の玉津島の山辺赤人の長歌と反歌を学びました。
10月13日に玉津島の対岸の和歌の浦アート・キューブ(和歌山市)で「和歌の聖地・和歌の浦誕生千三百年記念 万葉音楽祭in和歌の浦」が開催され、岡本三千代と万葉うたがたり会が出演されます。入場無料定員200名で予約が必要です。ご予約は電話・Faxで、073-455-1203木綿さんまで申込ください。詳しくは(https://nukata.jp/4647/#:~:text=2024%E5%B9%B47%E6%9C%889%E6%97%A5.)を御覧ください。
玉津島神社の犬養先生歌碑(山部赤人 巻6ー917~919)*この歌碑の歌が岡本先生の新作曲で万葉うたがたりで披露されます。
(尚、この歌碑の設置場所は少し移動しています)
【おでかけナビ あなたの”推し”は?「飛鳥人」人気投票】岡本先生出演 9月27日 NHKなら 放送
『 万葉集に親しむ』~狭岑の島~ 2024年8月16日
カレンダーの歌は藤袴です(写真は明日香の棚田の群生している珍しいものです)。山上憶良の秋の七種(ななくさ)の歌で旋頭歌(577 577)の民謡に多い形式です。
狭岑の島は、香川県(讃岐)にあり、瀬戸大橋を渡った所にありました。今は沙弥島(さみじま)で、四国と地続きになっています。柿本人麻呂が、瀬戸内の風土景観への賛歌と、狭岑の島で出会った石の中の死人への畏怖の気持ちを歌った行路死人への挽歌です。
岡本先生の「狭岑島挽歌」の説明文(古代人の「死」に対する畏怖感は、たとえ行きずりの人であっても死者に対して手厚い鎮魂の意を表しました。瀬戸内の船旅をしていた随行歌人の柿本人麻呂は岩場にうち寄せられた漂着死体を見て、挽歌を詠みました。香川県坂出市沙弥島は、瀬戸大橋の橋脚近くにあり、野の上のうはぎとは「よめな」という華麗できれいなピンクの花です…。)。この歌は、瀬戸大橋 開通記念で、この島で地元合唱団で披露されました。
後半は天智天皇への挽歌(巻2‐147~155)皇后・采女・額田王・舎人の婦人達が、殯(もがり)から「葬」「はふり」期間に9首の挽歌を捧げています。
遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみむ葬送儀礼=殯(もがり)で、この儀礼が死者の霊魂を畏れ、かつ慰める儀式となっていました。現代でも、天皇や韓国の貴人が亡くなられた時に行われています。
沙弥島(さみじま)の人麻呂碑(下の写真:COOLKAGAWAより) 藤袴とアサギマダラ(2019年撮影)
『 万葉集に親しむ』~七夕を詠む~ 2024年7月19日
最初は、冷泉家の七夕の紹介です。御子左家の権大納言藤原為家の四男である権中納言冷泉為相を祖とします。
カレンダーの花は6月の「あぢさゐ」と7月は「ぬなは」(スイレン科の水生の多年草の蓴菜(じゅんさい))静岡県浜北の万葉植物園の紹介です。蓴=(ぬなは)と云う。
踏歌節会(とうかせちえ:正月行事)が、万葉時代から聖武天皇時代は朱雀門前で行われており 光る君の平安時代は宮中ででも継続していました。
この平安時代の百人一首でも歌われている紫式部と清少納言の紹介です。
清少納言「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よにあふ坂の 関はゆるさじ」(後拾遺集939)は、秦国に囚われてしまった孟嘗君(もうしょうくん、中国戦国時代の政治家)が、逃げるために部下に鶏の鳴き真似をさせて函谷関の関所を開かせたという話を踏まえて歌われています。「夜がまだ明けないうちに鶏の鳴き真似で騙そうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、逢坂の関は決して通さないでしょう。(騙そうとしても、決してあなたと逢いませんよ)」と藤原幸成に返歌しています。
紫式部「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠(がく)れにし 夜半の月かげ」(新古今1499)は「久しぶりにお会いできたのに、それがあなただとわかるほんのわずかな間に、あなたは慌ただしく帰ってしまわれた。まるで、すぐに雲に隠れてしまう夜半の月のように」と。
万葉集の七夕の歌は130首以上あります。主には巻10(1996~2033)や柿本人麻呂歌集38首です。
大伴家持の七夕歌(ひちせきか)5首:巻17⁻3900(星田妙見宮の歌碑)は中国の言い伝えで織姫が舟に乗って月夜に彦星の所に来る万葉歌で、家持らしく教養ある歌です。(当時は男性が女性の所に通ってくる歌が大半)。巻18⁻4125~4127、巻19⁻4163。4127の「日長き児ら(けながきこら)」と読みます。長い日数の場合はヶと万葉集では読むとの事です。
次は柿本人麻呂歌集の七夕歌巻10⁻1996~2033 38首を勉強しました。最後の2033の下3句は難訓歌ですが、一説では「天(あま)の川(がは) 安(やす)の川原(かはら)の 定(さだ)まりて 神(こころ)競(くら)べば 磨(とぎ)待たなくに」と読みます。
(参考にhttps://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40706ea25dca15c61057866b6ff8a8f7)
*今回は、高岡万葉まつり2024(10月4日~6日)の動画朗唱に今年も応募します。山上憶良 七夕の歌 12首(巻8⁻1518~1529)で5日の早朝にYouTubeで放映されます。
『 万葉集に親しむ』~紀伊國の旅に~ 2024年5月17日
5月のカレンダーの歌は、ホトトギスと「うのはな(うつぎ)」と【花ごよみ(初夏バージョン)】で杜若と卯の花、ホトトギスの歌と、住吉大社の『卯の花苑』(毎年5月1~31日のみ開園)の紹介がありました。
万葉学級のテーマソング【サンバDEツバキ】の巨勢山のつらつら椿の歌は、大宝元年冬10月に、持統と文武天皇が紀の湯に行幸した時に同行していた坂門人足が詠ったものです。
この時に景勝の白崎や、南部(三名部)・鹿島、由良、和歌浦(黒牛潟)、藤白、真土山、飛鳥の土地を歌った15首を味わいました。特に白崎の景観は犬養先生が、セメント原料の採取からの破壊を守ったので、何とか崩壊を免れ今は日本のエーゲ海とも云われています。
後半は、有間皇子の挽歌です。巻2⁻140~146は有間皇子自身・長忌寸奥麻呂・山上憶良・柿本人麻呂・川島皇子、巻1⁻10・11は額田王・中皇命の挽歌があり、何れも有間皇子への哀悼の想いが詠われている。
有間皇子の変について日本書紀(政権側の記述)と万葉集の有間皇子の挽歌は対照的である事を学びました。
*参考:中皇命は間人皇女「はしひとのひめみこ」の説が有力か?=とすると孝徳天皇の皇后で、有間皇子は息子という事になる。
孝徳天皇は、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めたが、白雉4年(653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊(後の斉明天皇)と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて飛鳥に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。宝算59。中大兄皇子にとっては有間皇子は政敵にあたる。(編集人追加)
202210学習内容(有間皇子ページ)が開きます。(有馬皇子から有間皇子に訂正しています)。
『 万葉集に親しむ』~妻争い伝説~ 2024年4月19日
4月のカレンダーの歌は、「つぎね(フタリシズカ)センリョウ科」。このシズカは、1本の花がヒトリシズカ、2本出ているのがフタリシズカと云いカレンダー写真はフタリシズカです。歌は長歌と反歌3首の4歌構成で作者未詳で、口伝えの口承文学で古い時代の歌が集められた巻13巻にあります。飛鳥の頃は、役人の勤務時間は日が上り落ちるまでで、都にある役所に行くのには、朝明けぬ前に山を超えて出勤していきます。
「向こうへ続く山背道を、他のご主人はさっさと馬で出かけられるのに、私の夫は ひたすら歩いていくので、見るたびに泣けてくる。それを思うと切なくて心が痛
むのです。私が母の形見として大事にしている真澄鏡と蜻蛉領布を持参し、それで馬を 買ってください。あなた。13⁻3314」と妻が詠うのですが、夫は答えて詠います「私が馬を買っても二人は乗れないから、お前さんは歩かなければならないだろう。 かまうものか、石を踏んで難儀しょうとも一緒に歩いて行こうよ」13-3317 。夫婦のいたわり愛の万葉歌で犬養先生が「結婚式」いつも披露されていた歌を、岡本先生が「祝婚歌」として作曲されました。
下のYOUTUBEに高岡万葉まつりに万葉うたがたり会の山口ひとみさんが歌っておられます。(つぎねVER)
妻争い伝説「菟原処女の伝説(うないおとめ )」現在の兵庫県西宮から芦屋市付近での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめを巡る悲しい妻争いの伝説で、田辺福麻呂(さきまろ)・高橋虫麻呂、大伴家持が万葉集に詠っています。特に高橋蟲麻呂は長歌で空想力を駆使し伝説を精細に劇的にえがきあげた長編です。
神戸市東灘区御影塚町にある処女塚は、娘「菟原処女」の墓、付近にある西求女塚(灘区都通に所在)と東求女塚(東灘区住吉宮町に所在)は2人の求婚者の墓と伝えられています。観阿弥または世阿弥の作と伝えられる謡曲『求塚』や明治時代の文豪・森鷗外は、この伝説を題材として戯曲『生田川』川端康成の『たんぽぽ』三島由紀夫の『獣の戯れ』にもされました。